2012年2月14日火曜日

エゴによる悲劇の例2

今日は長野県松本で「長野の未来を創る教育と地域社会の在り方を考えるシンポジューム」の開催のために、正午に車で移動です。途中は雪で前が見えにくいほど、銀世界でした。創造主の無限のデザインを感じながらの移動でしたから「美しい」の一言でしたね。
最初のパネルディスカッションを行います。主催は「一般社団法人:日本メンタリスト協会」です。設立して最初のイベントですから、前途洋々ですね。

ディスカッション後に「藏本天外の基調講演」を一時間行って閉会です。テーマは「子供達の未来に何を残せるか」でお送りします。終了後にアポイントが入っているので、詳細は後日記載します。
皆さんにとっても最善の一日を…では、明日。





〜 天外からのアドバイス 〜

今日は「エゴによる悲劇の例」を記載します。

<エゴによる悲劇の例>昨日の続きです。
なぜこのようにうまく行かなくなっているのでしょうか。

潜在意識の部分は0才から13才の間にできます。0才から13才までの自分と、今の自分が同じ人格だという人は殆どいなません。教育も受け、仕事を持ち、 人間関係を持ち、様々な事を達成し、深い友情も育て、自分の精神世界も探求し、成熟し、子供をもうけ色々な事を学んできました。0才から13才までと同じ ままで育ってきた人はいません。

しかし、エゴが自分にいう事は全て0才から13才までの間に言われた事なのです。それを、延々と自分に言い続けています。今自分がどういう人間であるかに 係わりなく、その時に言われた事を言い続けています。0才から13才までの間に聞いた声とか印象を、大人になっても聞かされ続け、我々はそれに反応し続け ています。これがどんなに悲しい状況かと言う事が分かるでしょう。

エゴには、論理もないし、学ぶ事もできないのです。エゴは、エネルギーを帯びた鏡のようなものです。或いは、同じ事を延々と言い続ける壊れたレコードの様なものです。

啓子さんの誕生日のプレゼントのために鳥のオウムを買ったとします。意地悪いユーモアを考えつき、意地悪い事を言うように教え込んだとします。「啓子、あなたには何もできないよ。」「啓子、あなたは頭が悪い。」とかいうことを。

それをもらった啓子さんが自分の部屋で飼っていて、オウムが毎晩悪い事を言い続けたとするとき啓子さんはどうするでしょうか。

0才から13才までの間に、親が子供に言う半分以上の事は、子供を傷つける内容です。それは、人間が延々と受け継いできた無知によるものなのです。自分の 子供に何かしゃべっているとき、今自分が言っている内容は、自分の母親が自分に言っていたのと同じだと気付く事があります。世代から世代へ同じ無知から来 る過ちを繰り返すのは簡単なのです。それが嫌な事とか嫌な言動とかを作っていきます。

仕事から疲れて帰ってきたときに子供がうるさく寄ってきたとします。そういう時に、子供に向かって「黙って! ほっといて!」と怒鳴った経験は誰にでもあ ると思います。それは、悪意で言ったのではなく、自分が疲れているので本当に一人にしておいて欲しいから言ったのですが、子供はそういう意味には受け取れ ない事が多いのです。

ある本に「自分の人生に起こるごちゃごちゃを親のせいにするのは簡単だ」と書いてありました。でも、本当は自分が自分に向かって毎瞬どんな扱いをしている かを考えると、親がどうこうしたのと比べものにならない程、自分が自分にひどい仕打ちをしています。エゴが自分にひどい仕打ちをしている訳です。エゴが、 「おまえは屑だ。」というと「そうかも知れない。」と思ってしまいます。エゴは、きつい事を自分に言い続けています。

エゴは諸刃の剣のようなものです。エゴは「何かをしろ。」と我々に言います。その後に、「そんな事をしてしまって。」と我々に思わせるのです。エゴを相手 にすると我々は勝てません。エゴは論理がないし、壊れたレコードのように繰り返すだけですから、エゴは変化しないのです。

自分が何度も何度も同じ様な行動をしているのに気がついた事があると思います。景色は違う、年齢も違う、着てた服も違うけれど、同じパターンを繰り返した という事を気がついた事があるでしょう。同じメロドラマを繰り返している人もいます。それは、エゴがやれという事をそのままやっているからです。エゴが変 わらないから、やる事も変わらないのです。

アンソニー・ロギンスによると、「無知とは、同じ事を全く同じ行動で繰り返して、今度は違う結果が出るだろうと期待する事である。」と言っています。

エゴはあなたを何度でも同じ道を歩かせようとします。エゴそのものが悪いものではありません。エゴはやってくれと言われたものをやっているのに過ぎないの です。エゴが他の次元と自分をつないでくれるので、人間にはエゴは必要です。しかし、エゴと自分とは区別する必要があります。

自分がエゴに無意識的に従うのではなく、エゴが自分の役に立つように利用するべきです。エゴが自分に従うようにするのです。
どんなものでも自分が力を与えてしまったものは、自分を左右してしまいます。何か嫌な事をお酒で紛らわせていたとします。「お酒を飲まないとやって行けないよ」と思うと、お酒が自分より強くて大きい存在だと認めて、お酒に力を与えてしまった事になります。

自分が自分の力を何かに与えてしまった瞬間から、それは自分より高いもの、自分を暴君のように支配するものになってしまいます。

独身の男性であるあなたがクラブに行ったとしましょう。
そこである女性と出会いました。すごく輝いていた訳ではないのですが惹かれていきました。話しをしているうちに、一緒に帰ろうという事になります。次の朝、恋に落ちた訳ではないのですが、少しの間付き合ってみようかなと思いました。

その日仕事に行って家に帰ってみると、その女性から留守番電話に7回もメッセージが入っていたとします。次の日会社に行くと、会社に何度も電話をかけてきたとします。すると、周りの人は「その彼女はどういう人?」と聞きます。

すると、「こんなに電話をかけられると迷惑だな。」と思い、彼女に「こんなに電話をかけられると困る。」と言います。すると、彼女から「あなた無しでは生きて行けない。」と言われます。

もしもそういう状況になったら、あなたはその女性に対してどういう態度をとりますか。そうなると、彼女にあまり優しく対応しないですよね。それは、彼女があなたに力を与えて、「あなた無しでは生きて行けない。」と言うように、あなたをすごい存在にしてしまったからです。

エゴそのものは悪いものではないのですが、暴君と化してしまう事に問題があります。

好きな人がいたとします。その人のエゴというのは、「あなたは窮屈なところにいるのだからやたらに動くのではない。」とあなたに言います。面白おかしく話しをしていますが、実際はエゴは悲劇を招くのです。

実例をもう一つ話しましょう。

小さい男の子が夜中に目をさますと両親が喧嘩をしています。すごい喧嘩なので怖くなりました。しかたないので、「ママ、パパ、喧嘩しないでよ。」と言いました。しかし、彼らは本当に頭にきているので子供に向かって怒鳴ったりし始めます。

しかし、その子は、本当は両親への愛情を示したかっただけでした。しかし、怒鳴られてますます怖くなってしまいました。そして、自分は悪い子なんだろうと 思ってしまいます。もしかしたら喧嘩も僕が原因かもしれないと思ってしまいます。そして、全部は自分のせいなのだという解釈をしてしまいます。すると、そ の導きがエゴに吸収されて、何もかも悪いのは自分だという認識がエゴの中に取り巻かれて漂ってしまいます。

15才になっても、20才になっても、30才になっても、50才になっても、全部自分のせいだという声に取り巻かれて生きる事になります。エゴがなんでも おまえのせいだと突っつくので、死にたくなったりしてしまいます。或いは不幸な気持ちで人生を送るとか、心の中のエゴの声が心の中の小さい部分、狂気とい う名の小さい部分に彼を追いやってしまうかもしれません。

そんな風にして悲劇的な事になり得るのです。エゴに自分の力を明け渡してしまう事によって、ずっと昔に起きた体験のプログラミングに自分を任せてしまうのです。それは、今の現実に於いては正しくない場合が多いのです。

子供は本質的に悪い子というのはいません。ただ、いたずらなだけです。両親というのは疲れているかもしれないし、落ち込んでいるかもしれないし、何かに不 安を持っているかもしれません。それでも、思わず口を滑らせて、言ってしまった言葉が、子供の人生全体に影響を及ぼしてしまう事があるのです。

私達が世界をどのように見るかというと、知覚、感覚、情報全てがこのエゴの層を通ってきています。「世界はひどいところである。」と思ったり、「自分を受け入れてくれないところである。」と思ったり、「自分を愛してくれるところではない。」と思ったりします。

赤ちゃんの時に自分の親友であったエゴが、そのうち自分の敵になってしまうのです。これは残念な事です。
<神聖なスパーク>
それでは、超意識の所で話した、神聖なスパークの話しに移りましょう。

前にも話した通り、この部分の本質は無条件の愛です。そして、自分を守ってくれて、望むものを全て与えてくれます。しかし、超意識の部分が自分のために働いてくれないのではないかという気持ちを抱いた事がある人もいると思います。

前にも述べましたが、エゴが自分を超意識とつなげています。

超意識というのは、良い悪いの区別が無い全てが一つであるという意識の一部です。白黒とか善悪とかの対局の無い意識の一部です。しかし、私達が生きているのは、上と下とか、南や北という極がある世界です。

ですから、我々が見る外的な世界には全て極が有ります。2元性が有ります。

例えば、暗い明るい、良い悪い、全て二つの極が有ります。でも、本当を言えば、良いも悪いも、暗いも明るいも有りません。

無条件の愛というのは対象を選びません。あなたの事は、あなたが存在するだけで十分愛しています。地球上でなかなか出会う事はありませんが、神聖なスパークというのは空や大地のようなものです。

レンズは良いも悪いも区別はしないので、私が、Aさんの写真を撮ろうと思っても、間違ってBさんの方へレンズを向けてしまってシャッターを押すと、Bさんの写真が撮れてしまいます。心を向けたときに移っているものが自分の中に反映されます。

意識的な心と神聖なハイアーセルフを結ぶものは何かと言うと、それはエゴなのです。

ですから、外側にあるレンズにどんなメッセージが映し出されるかと言うと、「私にはできない。」とか、「私はたいした人間ではない。」、「私は価値がない人間だ」とか、「全ては私が悪いのだ。」とかです。
神聖なスパークは、思ったものは、何でも与えてくれるので、結局、「私には価値がない。」と勘違いしてしまいます。

そういう想いを映し出すと、どんなものをくれるかと言うと、言った通りのものが戻ってきます。


ハイパーメンタリスト
藏本天外




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